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大学受験の合格体験記
私が高校2年生から3年生に進級しようとしていたころ、卒業生が置いて行ったという問題集が校舎の前に山積みにされていて、そこに何人かの生徒が群がっていました。私も何か一つぐらい貰って帰ろうと思い、そこでZ会の英文法問題集を拾いました。この出会いが、後にこの男の運命を変えるのです。
私の大学受験に関する20年前のロードマップを思い出しながら書いてみますのでご参考になれば幸いです。
高2で受験勉強を開始
物理的にそうなってしまったのですが、高校2年生まで硬式野球部に所属していたものの、ある日そこの顧問とトラブルになり退部届を出し、暇になりました。3か月ほど帰宅部として遊んでみたものの、驚くほど暇で仕方がなかったので母親に言って塾に通わせてもらうことにしました。この時は、数学が苦手で仕方がなかったので数学だけでもと言ったところ、英語の授業も一緒に取りなさいと言われ、大和西大寺駅にあるECC予備校という英語が強そうな塾に入りました。
数学の先生が、河合塾の講師も兼任していて非常にコミカルな笑いを取るタイプの人で、授業がおもしろく、課題をこなして解法を毎回聞いていたら自然と成績が伸びました。やらなかったから成績が悪かった分、ほぼ全て伸びしろだったようで、高3になるころには数学が得意科目になっていました。
ただ残念なことに、授業前に仲良くなった後ろの席の別の学校の女の子が、私がその授業中に耳くそを取っていたら以後二度と口をきいてくれなくなりました。
英語に関しては、元々そんなに苦手ではなかったし、授業もわざわざ英文を板書して、下線を引いて、どこがどこにかかっていて、こんな風に和訳するという説明だけだったので正直要らないなと思い、解約するに至ったのですが、その時は学校以外で授業を受けたことが無かったのである程度言われたことをやっているだけでした。
数学の成績は上がったものの、英語の成績がいまいち伸び悩んでいたので、勉強方法を変えないと不味いと思い始めたのが高3に上がったころでした。
同じ問題集を3周やれ
どこで聞いたかもう覚えていませんが、ある日どこかで誰かが言った「同じ問題集を3周やれ」という言葉に縋りついたわたしは、冒頭で拾ったZ会の英文法の問題集に取り掛かりました。
今でも覚えているのですが400ページ以上ある問題集を解き、1周目を終えるころには夏休みに差し掛かっていました。夏休み、私が退部した硬式野球部の友人と共にECC予備校西大寺教室の臨時自習室に毎日通って自習することになりました。私は、この夏休み期間にこの問題集を3周終わらせることだけに集中することを胸に誓い、1周目で間違えたところにバツをつけ、バツがついたところだけをやり直し、3周目はさらにバツが2個付いたところだけをやりました。
その友人は、自習中によく近所のならファミリーという近鉄百貨店に遊びに行っていました。安倍晋三元総理大臣が襲撃されたところのすぐそばにある百貨店です。私は高校生活で部活を途中で辞めるという嫌な経験をしていたので、浪人は嫌だなという思いから、遊びには行きませんでした。
この勉強方法が功を奏したのか、センター試験の過去問で英語を解くと7割~8割ぐらいの点数が取れるようになってきました。それまでは5割くらいしか取れていなかったので、ちょっと大学へ行くのは難しいなと思っていたため、ここから行けるんじゃないかという期待感が自分の中に芽生え始めました。
2学期に入り、センター試験の対策を始める
1学期から夏休みにかけては、学園祭や部活を終えて暇になった友達との遊びもあり、そこまでギアを上げることもなく勉強をしていたのですが、2学期に入ってからは真剣に勉強をしようとギアを一つ上げました。
まずは、ECC予備校の授業を数学以外辞めてしまいました。センター試験の対策を始めて気付いたのですが、過去問と各予備校が出している予想問題集の演習、そして間違えた部分の復習をすることで7割以上は確実に取れることが分かったため、後は演習量を増やす方が合格率を上げることに繋がると判断したためです。
ECCのチューターはめちゃくちゃキレていました。
夏休みまでで数学と英語はかなり得意になっていたので、毎日数学から勉強を始め、気分が良くなってから苦手だった国語、記憶すれば何とかなる理科と社会に取り組みました。
10月に入り模試が増えてくる
国公立大の模試が始まり、これだけ勉強したからある程度合格圏内に入っているだろうと思い、志望校の合否判定を見ると”E”判定でした。
大阪市立大学法学部を志していましたが、10月の時点でE判定。1か月に一つずつ判定を上げられるとしたら2月にA判定・・・。やるしかない。と超楽観的な私は志望校を変えませんでした。
この時、二次試験の対策をやっていなかったことを1月ごろ後悔します。
各予備校のセンター試験予想問題からなる模試にも参加し、微妙な判定が続く中、そこから徐々に人と喋らなくなりました。
10月から翌年の1月まで、毎日のように勉強をしていたと思います。当たり前ですが。
鉛筆が使えなくなるまで勉強する
センター試験はマークシート入力ですが、書き込みはHBの鉛筆を推奨されています。そこで、普段から慣れるためにある時期から鉛筆を使うようになりました。鉛筆は毎日削らないといけないので不便だと思いましたが、鉛筆を5本筆箱の中に入れておいてその鉛筆の芯がまるくなって使えなくなったら勉強を終えるという風にすると、なんとなく目に見える達成感とある程度の目安が付き、そこから20年経った今でも鉛筆をまだ使っています。軽くて字が書きやすく、シャーペンをそれからあまり使わなくなりました。
大晦日
勉強のチートデイと言うべきか、同級生と大晦日ぐらいカラオケに行ってストレスを発散しようという話になりました。
2004年12月31日、その日は突如として奈良市内に大雪が降り、バス停へ行くとバスが全く来ず、なんと坂道でタイヤがスリップしてしまうので来れないということでした。
仕方なく家に帰るのではなく、友達との約束を果たすために駅まで1時間ぐらいかけて雪道を歩いて行きました。
母親は、「そこまでして勉強しに行くなんて偉い。絶対受かるわ」と言われましたが、本当はカラオケをしに行きたかったからで、勉強なんて1ミリもしていません。ただ、今思うのですが何かやりたいと思った時に、天気のせいにして諦めるのだけは嫌だという強情さは大切だなと思います。これがあったから、大学に入った後は屋内スポーツを選びました。
金八先生
私が高校生の間、楽しみと言えば突如として復活した金八先生シリーズでした。受験シーズンに大切な放送があり、センター試験前夜の放送を見たい、そんなものを見たら落ちる、見ないと落ち着かないので落ちるの言い合いを母親として、見ました。
「センター試験の前の日にこんな余裕があるんだからいい点数取れる。今頑張ってるやつは大したことがない。もしかしたら金八でやった内容が明日の試験に出るかもしれない。」
「いや、金八は中学校の話やからそれはない。」
そんなセンター試験前夜。
センター試験当日
私が指定された受験会場は近畿大学農学部富雄キャンパス。家からは車で行けば20分そこそこで到着する立地であったものの、母親はこんな日に車で送って事故を起こして受けられなかったらダメだから遠回りでもいいから電車とバスを使って行きなさいと言われ、1時間かけてたどり着きました。
到着すると、担任の教師や、推薦入試で一足早く進学が決まっていた同級生たちが応援に来てくれていて、頭がよくなる飴とかを配ってくれていました。
その時教師が「受験票があるかしっかり確認しなさい」と言われ、「そんなん忘れる奴おったら絶対焦ってるよな。」と言った後、カバンの中をいくら探しても受験票が無いので血の気が一気に引き、真っ青な顔になって家に電話しました。
「ごめんやねんけど、受験票忘れたから届けに来てくれへん?」と。
そうすると、鬼のような声で「あんだけ昨日テレビみたり余裕こいで!一生このこと忘れませんから!」と怒鳴られ、試験開始5分前に会場に届けてもらいました。
試験会場にギリギリで滑り込み、直ぐに試験の説明が始まり気が付けば試験開始。
全く緊張せずに問題を解き切りました。
自己採点
初日、二日目が終わってから私はネットに載っている模範解答を見て自己採点をしました。自己採点では全科目で8割に到達しておらず、目標にしていた大阪市立大学法学部は難しいなという目途が立ちました。
止むを得ず、バーターでどこか滑り止めになるところを探すのですが、その時ふと我に返りました。
「そもそも、法律に詳しくなっても仕方ないな。せっかく受験勉強するから、一番偏差値の高い学部の法学部にしてたけど、そもそももう勉強したくないし入ってからしんどそうな法学部目指すの今やめよう。」
何と私、センター試験を終了した瞬間に全ての糸が切れてしまい、そこから20年間一度も勉強しようという気持ちになったことがありません。非常に残念ですが、一度心が折れるともう無理です。
センター試験の結果はトータルで7割8分ぐらい。英語、数学、社会などを使えば8割強。とりあえずセンター利用という方式で立命館大学法学部に出願したところ合格通知が来ました。
関西学院大学法学部も、センター試験レベルと言われていたので英語、国語、数学で受験したら合格通知が来ました。滑り止めは関西学院大学法学部に決まりましたが、奈良の実家から遠かったので仁川まで通うのは少し嫌だなと思いました。
突然職員室で拍手をされる
確か、この一連の流れで合格した2校について職員室に報告しにいきました。
と言え、担任の教師がいるわけでもなく、なんとなく見知った教師がいたので立命館と関学から合格通知来ましたと言うと、教師が全員スタンディングしてオベーションを始めました。
ああ、これがスタンディングオベーションか。と感動したものです。
最初、少し低めの音でゆっくり拍手を始めてから、続き始めたら徐々に早くなって音が大きくなる、あれです。そこはちょっとしたコンサート会場をほうふつとさせていました。
当然の結果の二次試験
ということで、大阪市立大学法学部の筆記試験に挑みました。
英語はまあ読めるし分かる。
数学も簡単。手ごたえ的には満点に近い。
国語・・・・、多分古典と漢文が全く解けない。答案用紙の方眼マスが多すぎて、そんなにこの女官、深読み出来るようなセリフないやろ~とか考えていたら終わりけり。
ということで、結果発表を見に行くまでもなく不合格でした。そこから先は、関学に行くんだと周りに言って、卒業までのわずかな時間を友達と遊んで過ごして、大体毎週朝帰りをしていました。
そんな最中、3月の終わりごろ、恐らく20日過ぎに早朝母親から電話がかかってきました。
「今どこにいてるの?心配してるんやけど。大阪市立大学から合格通知来たよ。今日申し込み日やから行って来て。」
「え!?どういうこと!?」
なんと、大阪市立大学経済学部はその当時、センター試験の結果だけで入学できる枠が20人分あって、その一人に選ばれたというのです。出したことすら忘れていました。入学のきっかけは、「母が勝手に応募して」と、ジャニーズJr.みたいな感じでした。
そこから杉本町に行き、後期試験での合格者という眠たそうな顔した学生だらけのキャンパスで入学手続きをして、晴れて大阪市立大学経済学部に入学し、授業にほとんど出ずに柔道部で4年間過ごし、適当にアルバイトをしてそのお金で海外旅行に行き、就職活動も無難に終わらせて卒業しました。
振り返ってのまとめ
- 一冊の問題集をやり込むと大筋でその教科に対する理解が深まるように出来ていた
- 得意科目を何個か作ると、毎日の勉強スタートが気楽になる
- 予備校の授業より効率的な自習の方が学力が伸ばせるが、自習方法が分からない科目は受講した方がいい
- 目的意識がなくなると一気に何も手がつかなくなるので何だったらふわっとした目標にしておいた方がいい
- 大学は勉強が面白くなくてそれ以外が全部面白い
参考になりましたでしょうか。
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