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南北朝時代から考える令和時代
高校生のころ日本史が不得意で、受験科目は地理Bを選択しました。私が高校を卒業したのが2005年3月で、2006年に世界史など一部の歴史科目が未履修の学生が8万人いるという社会問題が発覚しました。私より2つ下の学年で、突如卒業単位が必要なので補修などがあり大変な負担を強いられたということを思い出したのですが、冒頭の日本史が不得意に繋がるわけです。
高校時代、盛んに幕末の小説を読み耽っていましたが、興味の薄い戦国時代以前についてはほとんど知識がなく、また知識が無くても未履修なので何ら問題がなくスルーして来られたわけです。
大人になって、「南北朝時代」がクイズ番組か何かで取り上げられて、キーワードは分かるものの何がどうなって鎌倉時代から南北朝時代を経て室町時代、そして戦国時代へと変遷していったか説明できないなと、教養の無さを補うべく勉強してみることにしました。
南北朝時代
鎌倉幕府が後醍醐天皇により滅亡させられた結果、幕府から天皇中心の政治に移行させようとした際に、倒幕に加担していた足利尊氏と楠木正成が大激怒し、足利尊氏が持明院統の光明天皇を擁立して「北朝」を建て、後醍醐天皇が吉野に逃げて「南朝」を開き、なんと60年間も闘い続け、最終的には南朝の後亀山天皇が京都に戻り統一されたのです。
60年間の長きに渡り、室町幕府(足利尊氏の子孫)が南朝を攻めきれなかった理由は、吉野という山岳地帯の地の利を生かしたゲリラ戦と籠城作戦が良く上げられますが、室町幕府自体のガバナンスに問題があったためと考えられています。ガバナンスは統治という意味でとらえてください。じゃあ統治と書けよという所ですが、ガバナンスと書きたかったんすよ。
鎌倉幕府と言えば、御恩と奉公で有名でしたが、「いざ鎌倉に!」の合言葉で御家人が集結する中央集権的なガバナンスが取られていました。関東一円を支配して財政力もありました。地理的にも三方を山に囲まれ、南側は海岸で守りに固く、無駄な戦力を使うこと無くガバナンスに使えていました。
一方で室町幕府は、60年にわたる南北朝戦争で疲弊していました。各地方のガバナンスは、守護大名に任せて、年貢の徴収も「守護請け」と言われる方法でそれぞれの地方にまかせっきり。室町幕府は京都にあったのでお金がかかって仕方がない。足利義満は金閣寺を建立し、その後質素な武家づくりの銀閣寺を足利義政が建立するのですが、徐々にお金が無くなって行ったことも読み取れます。
その結果、織田信長など地方大名が天下統一に動き室町幕府は滅亡。戦国時代へと突入していくわけです。
このころ、命の儚さが世の中のテーマだったのか、仏教文化が日本中を席巻し色々な流派が台頭しています。面白いですよね。
平成時代後期から令和時代
30歳を過ぎたころ、「江戸時代、明治時代、大正時代・・・と続いて今は何時代なんだ」という疑問を持ちネット検索を掛けると、元号が変わるごとに時代が後ろについていることを知りました。なので、平成時代が終わり、今は令和時代に突入しているということになります。時代の変わり目に、南北朝時代のような政変が起こっているわけではないので、区切りが分かりにくいのですが、政治的な視点から言えば中央集権から地方分権、そしてまた中央集権を繰り返しているのが日本史の特徴であると思います。
私が住む大阪では、大阪維新の会が大阪都構想で議席を伸ばし過半数を獲得。しかしながら、2020年の2回目の住民投票では、49.4%対50.6%で反対多数となり都構想は実現しませんでした。実現していたらこれが変わるというのが、勝つ側より負ける側の方で強く具体性を描けたためだと言われています。
他の都道府県でも、徐々に自民党が弱い地域が増えては消えてを繰り返していますが、もしかすれば南北朝時代、室町時代、戦国時代、幕末の繰り返しをしているのかもしれません。
形を変えども争いは絶えません。
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