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非被災者

非被災者としての3.11

 当時東京で職を得て働いていた私は、3.11の震災の日岡山県へ出張していて、カーラジオで何となく状況を断片的に知っていたのですが、関東方面への電話は繋がらず、夕方お客様から事務所で東京へ帰るのは無理やろと言われて、初めて何か大変なことが起きたかもしれないと感じました。その日は、実家のある奈良までは大混雑した新幹線で新大阪まで行き、無事帰れたのですが、翌週水曜日まで関東の寮へは帰れませんでした。無理したら月曜日に帰れたのですが、在来線は動いておらず、新横浜まで行って、そこからタクシーかバスか徒歩でしたからね。

 新幹線で新横浜へ向かい、神奈川県内の寮へ帰る道中のコンビニには全然食料品が売っていないのに驚きました。その後すぐに静岡か小田原辺りで揺れた余震で、震度5以上の揺れを生まれて初めて体験しました。その時周りの反応が薄すぎてショックを受けました。

 よく考えればそれもそのはずです。3.11当日のビル内で揺れを体験して、その後夜通し会社に宿泊して不安に包まれたり、20キロ以上徒歩で帰宅したと同僚から聞かされました。他にも、お客様を引率して都内でセミナーを開いていた営業マンは、そのまま社用車で東北まで送り届けたとか、茨城県内に出張中に地震に遭い、ガソリンの残りを気にしながら大渋滞の中会社まで戻ってきたなどそれぞれ命にかかわることはなかったものの、不安を体験していたということで、それ以来地震が来ても恐怖心を表に出さない方が良いと思うようになりました。自分は非被災者だったのです。

建設機械の営業マンとして

 初めて被災地に行ったのは半年後の9月。まずはニュースで見た通りの景色と、真新しい墓石が並んでいたのが心に残りました。そしてさらに驚いたのが、半年で真新しい建設機械が沢山並んだゴミ処理場の風景。オーバースペックな配置。「ああ、僕はこんな商売したくないなと思いました。」結果、2年計画のごみ処理もじゃぶじゃぶに使われた復興予算で半年程度で片付いたそうです。全国からトラックが集結してました。雨の日は作業が止まるので、日帰り温泉やネットカフェが大混雑になり、夜は歓楽街で派手にお金を使う出稼ぎ労働者や出張組が沢山いらっしゃったそうです。空前絶後の好景気に見舞われた方も、とりあえず見た目に分かる高級車が欲しいと、メルセデスベンツのSクラスが一番売れていたそうです。

 そこだけ切り取って書けば変な具合になりますが、震災で家族を失われた方や、家が倒壊したり流された方も大勢知っていますので、その方々の心労を考えると復興に支援が投入されたこと自体は間違っていないと思います。それが果たして普通に暮らしていた人たちに届いたかは別として。

 先輩についてその時は被災地を回ったのですが、仕事をされている方は全国から集まってきているので、あまり被災された方はいらっしゃらなかったのが印象的でした。とにかく、どこに行っても全国津々浦々から仕事が出来る人が集められたという感じでした。

 帰社してから、1年以上は関西や中国地方を中心に営業しようと決めました。私の予想は的中して、ほとんどもぬけの殻となった東北以外の地域では、普段より勝率の高い営業活動が出来ました。お客様曰く、本当に広域を担当している営業が来なくなったそうです。

地元大阪では

 ご存知の方も多いでしょうが、3.11当日の大阪では震度3程度の揺れが2~3分続いたので、弊社の現場で作業していたスタッフは、製品をタンクから引き揚げたのにいつまでたっても液面の揺れが収まらないのでおかしいなと感じたと言っていました。遠くへ行けば行くほど揺れの幅が広がっていくのでしょうか。

 他人事ではないなと感じたのはつい最近大阪北部地震があった時、腹の底から逃げろと叫んで従業員を避難させました。その後台風が来て、大阪中の屋根が飛んで道路標識が北向きに回転して、信号機もくるっと横を向いていました。知り合いではないですが組合所属のメッキ屋さんも数軒屋根が飛ばされて機械が壊れて動かなくなって廃業したところもありました。 幸いどちらの自然災害でも被害を受けることなく、無事操業し続けることが出来ております。

 実は些細なこととして取り扱われていますが、大型台風が大阪を直撃したあと、漏電によるボヤが相次いで、毎日消防車がかなりの頻度で出動していました。色んな教訓を残してくれる面もあるため、目をつぶらずに過去に倣って行動していく必要があると思います。

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