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道徳の教科化を批判するよりも・・・まずは
「道徳の授業が2018年度から教科化される!!」
小学生や中学生の子どもが身近にいないので、ネットニュースで話題になっているのを見て初めて知りました。記事を読むと、「先生が一つの答えに生徒を誘導していこうと必死!」とか「この子は間違っていないのにみんなの前で非難されて可哀想!」とか道徳教育の教科化を危ぶむTwitterなどの意見が掲載されていました。
問題とされている部分は次の通りです。
- 成績を数値化する必要がある
- 国の価値観を押し付ける、政治的意図がある
- 教える側に道徳が身に付いているのか
- 私学の宗教教育とのすみわけはどうするのか
- 地域性のある問題をどう取り扱うのか
ここからは完全な持論なのですが、道徳教育のポイントは「答えがない問題を討論し、いろいろな人の意見に傾聴すること」だと私は思います。教育する側が1つの答えに対してムキになって誘導することは間違っていると思いますが、この教育の機会を批判するのはもっと間違っていると思います。道徳教育に割かれる時間が地域や教員によってバラツキがあったため、学習時間の確保がもたれるようになったのも、こういう多種多様な考え方の中で揺れ動く体験をさせることに意義があるのではないかと思うのです。
例えば、うろ覚えですがこんな例題がありました。
「野球の試合で監督の指示は送りバントだったが、好球が来たのでヒッティングに変え、チームは逆転勝利。その後監督からその選手は指示に従えない人間は組織には必要ないと非難された。」
みたいな内容だったと思います。
この監督が正しいか、間違っているか議論させ、どちらの意見もいいところと悪いところがあるということを生徒たちに理解させるファシリテーターとして振舞うのが良い教師だと私は思います。世の中のPTAが恐れているのは、監督の指導方法が正しいと画一的な意見を持ち、誘導し、それ以外の批判的な意見を排除する教師の存在です。
私が小学生のころ、こういったディスカッション形式の授業を頻繁にする教師がいました。その教師は、答えが割れる問題を提起して、二つの意見を持ったグループに分けてディスカッションさせます。そして、一定時間が経過するとお互いの意見を入れ替えさせてまたディスカッションさせる。そうしてどちらが良いと思うか意見を述べさせ合うという授業をたびたび取り入れていました。今思えばその教師の指導方法が一番いいかなと思います。決して自分の意見を言わないスタイルに感銘を受けた記憶がありました。
弁の立つ子どもは相手を論破することに躍起になって、人の意見を聞かない傾向がありますが、このやり方をすると後から論理的でない場合自分の意見が自分を苦しめることになると理解できるのです。
わが子がこういった教育を受けるにあたって、親として出来ることはどんな授業だったか家で聞いてあげることだと思います。そして、教師が言ったことと子どもが言ったことの食い違いで悔しい思いをしたんだとしたら、子どもの考え方を否定しないで聞いてあげることが大事だと思います。そして、悔しかったら教師を黙らせる論理的な答えを導き出せるよう努力するべきだと促してあげることが子どもの成長に繋がると思います。
学校で教えてもらったことを真剣に真に受けて、演じるでもなく優等生になる子どもが果たしてどれほどいるかと私は思います。
結局は、家庭で「先生の仰ったことが正しいからちゃんと言うこと聞きなさい!」と教えるのか、「先生の考え方はおかしいけれど、そういう考え方を持った人もいると思ってうまく渡り合える人間になりなさい!」と教えるのかの違いではないでしょうか。
道徳が教科化されることに対して批判するのもいいけれども、家庭内で子どもと向き合うことも大事だと思うのでした。
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