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野村のDNAは
これまでも、これからも
大阪のめっき業界を支えていく。

大正時代の創業から一世紀。
ルーツを共にする三社のトップが、アルファメックの創業100周年に寄せて、それぞれの歴史やこれからについて熱く語り合いました。

株式会社 野村鍍金
野村 修平

アルファメック株式会社
野村 重之

株式会社センショー
堀内 麻由子


兄弟が力を合わせて、大阪の地で築いためっき会社。
その系譜を、今も私たちがつないでいる。

野村重之
(以下 重之)
本日はお忙しいなかありがとう。この座談会は100周年記念誌の特集です。まず簡単に会社の歴史を話してもらえませんか。
野村修平
(以下 修平)
はい、私は大正5年創業の株式会社野村鍍金の代表取締役社長です。重之さんとは曾祖父でつながる又従兄弟の関係ですね。重之さんより10歳若いですが社長になって28年になり、野村鍍金の社長としては四代目です。創業者のあと二代目の祖父 六郎の長男 太郎が病死してしまい、急遽三男であった父 英雄が24歳で社長を継ぎ三代目になりました。
堀内
今は株式会社センショーという名前でやっていますが、私が社長になる前は、株式会社野村鍍金工業所という会社でした。お二人とは曾祖父でつながっています。私の祖父 野村正一が当社の初代です。その後、叔父の逸郎が社長になり、その息子が後を継ぐはずでしたが42歳で突然死してしまい、跡継ぎが不在になりました。当時の社長の逸郎も脳梗塞で半身不随になっており、私の父 野村正博が専務という立場のまま経営を担っていました。そして父も平成18年にがんになり、私は全然違う仕事をしていましたが父から仕事を手伝ってほしいと会社に呼ばれまして、39歳で野村鍍金工業所に入社しました。父が生きている間だけのつもりだったので、2年半で父が亡くなってしまった時には辞めようと思いましたが、取引先とか金融機関と話をしているうちに私が後を継ぐことになりまして。その時、叔父もご子息もいて、色々煩雑だったので、株式会社センショーという会社を自分で作って野村鍍金工業所を買い取るという形で引き継ぐことにしました。
重之
野村家は元々名古屋です。長男が麻由ちゃんの曾祖父の慎太郎さんで、でも一番先に大阪に出てきたのが、中井家に養子に出た三男の近之祐さん。近之祐さんは東京でめっきを覚えて大阪へ来て、工場を始めました。それで兄弟を呼んだんですね。そのときの順序が野村鍍金の六郎さん、二番目がアルファメックの清之助、そして今日の話だと三番目がセンショーの前身、野村鍍金工業所の正一さんということになる。センショーさんの創業が一番遅かった理由が分かりました。
堀内
そうなんですよ、曾祖父母は名古屋にいました。
重之
野村鍍金の英雄さんのお母さんと、うちの信一のお母さん、つまりおばあさん同士は仲が良かった。義理の姉妹だし。朝、野里からおばあさんがやって来てうちで一日過ごして帰りは僕が車で送って行っていた記憶があります。
修平
おこまおばあさん。
重之
そうそう。うちと野村鍍金は戦時中合併して阪神鍍金になった経緯もある。うちの親父は英雄さんを兄のように慕っていました。だからうちの方が野村鍍金に帰属するような形で統合したのではないかな。二社が仲良かったから、戦後解散になった時もスムーズだったと聴いています。
修平
うちの創業者の六郎は、名古屋の竹田嘉兵衛商店というところで奉公をし、筆頭番頭まで勤めたらしいです。大きな商いをしていた竹田嘉兵衛さんに、六郎は長男の名付けを頼んでいます。封建的な時代の話ですからね。そして次男が生まれたら、太郎の次は次郎でええ、と言われて何か思ったらしい。やっぱり我が子の名前ぐらい自分でつけたいとその時に独立の気持ちが芽生えた…とか何とか。そのうちに弟の中井さんからめっきの仕事に誘われ、許しをもらって大阪へ出て来たと。
重之
義理固い人で、きっちりけじめをつけて独立したらしいね。
修平
国の統制で統合するときも、他所の血は入れないという考えがあったようです。うちはその後、工業用の硬質クロムめっき一本で、三菱重工の取引が多かったので重厚長大な製品を扱うようになりました。そのため正直なところ借金を重ねて、設備投資を重ねて……。めっきをするには整流器が必要ですが、うちは当時日本最大の1万アンペアを入れたそうです。昭和30年代、新聞記事にも載るくらいの投資でした。まためっき前後の工程に関する大型機械もたくさん入れて、手狭になったので昭和44年頃には広島に福山工場を作りました。
重之
2万㎡もある広い敷地でね。そこに4棟が建っていた。

創業の大正時代、そして戦時中の厳しい時代も。
家族として支え合って来た信頼関係が息づいている。

修平
そうですよ!私は入社時に、もう生涯かけて借金返すんや!と誓ったくらい。父にそう話したら、借金なんか怖ないんや!と。景気が悪くなるのが怖いんや!と。そんな人でした。まあ、そこから幸いにして再び経済成長があり、潰れかかった話も歴史の一部になりました。
重之
創業108年。一番長いんだもの。いろいろあるよ。
堀内
私は父から遠い親戚のめっき会社が2軒あると聞いていました。でも直接お会いしたのは私が前身の野村鍍金工業所に入社して組合のめっき訓練校に入った時。重之さんと修平さんは技術委員で偉い人だったのに、実は親戚だよ、と声をかけていただいて。うちの創業者 正一は、お正月以外は作業服を着ているような仕事一筋の人でした。家の一階にめっき槽があり、いつ行ってもそこで前掛けをしてめっきをしていたのを覚えています。その横で祖母が製品を新聞でくるんでいて。私はそれをよく手伝っていました。
重之
酒も飲まなかったの?
堀内
全く飲まなかったです。
修平
うちの父も信一さんも飲めなかった。あの代は全員だめだったんですね。
重之
野村家は明治以前の利三郎の代まで色々な事業をしていたみたい。うちは大正13年、祖父が24歳で創業しています。後にうちの親父が戦争から帰って来て二代目になったけれど先に次男の義夫が工場に入っていたので、あまり口出しできなかったんじゃないかな。親父は生まれてから死ぬまで一回もめっきをつけたことなかった。英雄さんもそうだったんじゃないの。
修平
そうでしょうね。めっきは当時最先端の技術でしたから
重之
僕は2年間、サラリーマンをしてから会社に入りました。入った時、社員は年寄りばかり。近所の社長に将来を心配されたくらいです。だから、めっき訓練校の高等講座でまず自分から頑張ることにしました。無電解ニッケルが出てきた頃で、とにかく水槽一つで研究開発を始めて。ターン数なんか気にせずとにかくめっきをつけた。でも少しずつできるようになったら、お客さんから引き合いが来るようになって。それで工程と売上が確立したら、誰かに任せて拡げていってね。
修平
今の姿は重之さんが作ったんですね。
重之
ダンロップの仕事が中国に行ってゼロになってしまったからね。その代わりを探さなくちゃいけないし、借金も返さないといけないし、必死だったよ。親父と二人で銀行に行って、頭を下げたこともあったね。
修平
連帯保証ですね。
重之
でも、行き詰まってしまって。ある朝、親父が僕の横に立って「もう詰んだ」とか言うの。何やねん、詰んだって(笑)。将棋じゃあるまいし。「どないもできひんことはないやろ」と父を説得して二人で銀行に行きました。土下座まではしなかったけれど、頭を下げたね。
修平
そうだったんですね。皆それぞれ壮絶な経験をしてますね。
重之
ま、人生色々ありますわ。
堀内
そうですよ。
重之
でもそのおかげで今じゃ3人とも鍍金組合で理事に就くまでになったね。

受け継いで来た「めっき」という技術の素晴らしさを
次世代に伝えていくのも私たちの使命。

修平
私は、めっきは非常に本質的な技術だと思っていて技術自体がすたれることはないと思っています。ただどの分野が日本で伸びるか、もしくは残るか、ということの見極めが成否を分けると思う。人口減少も心配です。30年後には生産人口は2000万人ぐらい減るとも言われていて、これを外国人労働者が埋めるのは不可能でしょう。これから社会に出てくる人たちに、いかにこの業界に入ってもらうかを真剣に考えなければいけない。
堀内
やっぱりまず選んでもらえる会社にならないと。うちはセンショーになって13期目。まだまだこれからです。でも昔の野村鍍金工業所の時はパートのおじいさんばっかりだったのが、今は新卒や大卒の子も増えて来ました。勉強が好き、という子も多い。めっきという仕事がまだ世間にちゃんと認識されていないと感じます。めっきという技術の面白さや重要性を、もっと若い人たちに伝え継いでもらわなければ。だから大学まで足を運んで学生たちに対してアピールするのも私たちの役目なのかなと思っています。
重之
センショーは難しい仕事をやっています。石油とかシェールオイルガスの掘削のときに使うパイプのジョイント部分。深さ2kmほどの地底から吸い上げるので、20mのパイプを100本継がなきゃいけない。その継ぎ手はめっきしなければ素材がもたないんです。強度や耐食性をめっきが担う。いい仕事をしているよね。
堀内
怒られてばっかりですけど(笑)。
重之
僕はもう68。これから何ができるかといえば、社員に教えるくらいかな。昔から母親に「頭動かねば尾が動かん」ってよく言われました。自分が率先して現場に入っていけば、皆がついて来る。それでうまく流れるようになってきたら、すっーと横へ(笑)。息子を見ていたら、もうちょっと現場に入ったら楽なのにな、と思う。
修平
早く社長職を譲ったらいいのに。
堀内
楽ですよ、会長になったら。
重之
息子の話になったところで、そろそろ締めましょうか。お二人から当社や次代を担う専務に何か一言ありますか。
修平
繰り返しですが早く次代に経営を委ねることですかね。最終決断をするっていうのは難しい。専務じゃなくて社長としてね。重之さんは会長になって現場でめっきの指導に徹したらいいのでは。対外的なことは全部任せて、社長の決断についてはフォローをしながら。
重之
なるほど。
修平
父は私が社長になってから、ほとんど何も言わなかった。そのことを今はとても感謝しています。社長業っていうのは、決して職人の延長線上じゃない。昔と違って今は経営マネジメントを学べる時代になりました。早くその実践をすることが必要ではないでしょうか。
重之
実は、僕が70になったら社長交代するって息子の結婚式で宣言したけど…今は80ぐらいかなと思ってます(笑)。
修平
私が社長になってからも、本当に数々の苦難がありました。でも若いからこそ乗り越えられた部分もあります。だから経営者は若いほどいいと思うんですよ。
重之
修平くんのところの福山工場に看板が掲げられているよね。「逃げたらあかん」って。普通なら安全第一とか書いてあるところに。やっぱり将棋(笑)。英雄さんの言葉でしょう、素晴らしいね。
堀内
邦博くんは、私にとっては年の離れた弟みたいな感じ。実は最初は心配だったんです。年が近い社員が多いので、うまくいくのかなって。でも改善提案とかで、いい感じにやっているでしょう。邦博くんらしく、うまく進んで行っていますよね。
重之
ありがとう。これだけ環境が厳しいなか、私たち3社が理事会で役員をやっていることは、すごいことだと思います。大阪のめっき工場は、現在174社。そのなか理事は20人。それで3つを占めているということは、野村一族、頑張っているな!と。これからも一緒に力を合わせて頑張りましょう。
修平・
堀内
よろしくお願いします!
(実施日:2023年11月6日 アルファメック本社2階にて)


お問合
わせ