磨きあげた営業力と技術力。
会社をひとつにする、カイゼン活動にも着手。
現在専務取締役を務める四代目の野村邦博は、昭和61年8月に生まれた。カメラが趣味であった祖父の信一は、幼い邦博の写真を数えきれないほど残している。両親と祖父母の豊かな愛情を受けながら、そして全く話を聞かされてはいなかったが、父の苦労の気配を、時に感じながら育った。
大阪市立大学経済学部に入学してからは、未経験にも関わらず柔道部に入部。2年間地獄のような〝可愛がり〞を経験した後、自身の強みは何かと考え、それが活かせる寝技の稽古に励んだという。元来の度胸の良さと負けん気の強さをうかがわせる話である。
大学卒業後は建機メーカーであるキャタピラージャパンに入社。油圧ショベルやブルドーザーなどの建設機械の営業職で採用され、東京本社の直販部に在籍した。仕事は全国展開している大手企業に東京から営業をかけ、全国の販売店の営業マンと一緒に現場を回るというもの。邦博が担当していたのはJFE、住友金属工業などであった。高いものなら1台6,500万円にもなる建設機械。販売してからもカスタマイズや修理など、ランニングコストで商売になる。全国の得意先を飛び回り、若いながらも社内で数々の実績と武勇伝を残していく。そうして邦博はダイナミックなビジネスと人づきあいのノウハウを肌で学んでいった。
あとを継ぐことに迷いはなかったが、入社の時期には自分なりの考えがあったという。社会勉強してすぐに戻ってくるパターン、突然父が亡くなったという知らせが来て会社に戻るというパターン。そのどちらも嫌だった。そうして仕事の醍醐味を存分に味わい、5年という一区切りで帰阪。平成26年に満を持してアルファメックに入社した。27歳のことであった。もちろん、めっきに関しては素人であったため、入社してからは社員について知識を学び、3年間は前掛けをしてめっきの現場に立った。
ダイキン工業株式会社の新製品を手がけた時には、大量の不良を出し、生きた心地がしなかったという。原因が判明して対策ができるまで許してもらえず、製造業の厳しさを肌で学んだ。今、邦博はその経験があって良かった、と振り返る。入社2年後から営業も担当するようになり、多忙が極まっていく。現場で鳴りつづけるタイマーと事務所で鳴りつづける電話。どちらを優先しなければならないかは明白であった。
平成28年には長男 友厚が誕生。祖父 信一と同じ2月13日生まれだったことに邦博は運命めいたものを感じたという。
平成29年には5S活動をカイゼン活動へと改め、カイゼン事例を事後報告制度とし、年に3回、従業員同士が投票し合う仕組みに変更す。これを主導したのが邦博であった。実はリーマンショックの時に仕事が落ち込み、教育をすると補助金が支給されるということで、重之が5S活動を始めていた。実践は木曽が任されていたが何せ時間がなく、手間もかかるということで十分な活動はできていなかった。それを独自のカイゼン活動まで昇華し、全従業員を巻き込んで継続させていく仕組みに作りあげたのは専務の功績だと木曽は語る。そして製造業の改善活動を取りあげる業界誌に、アルファメックは何度も掲載された。
令和3年には「経営者主導で社内カイゼンを活発化させる方法」をテーマに邦博は組合の青年部会で講座を開くまでになった。現在でも1年で400件以上の改善提案が出され「カイゼンは儲かる」と言い切ることができる。それが、アルファメックという会社なのである。
ゴルフリペア事業でB to Cへ挑戦。
未来を見つめて、四代目が動き出す。
邦博が力を入れたのがホームページやSNSである。特にホームページはリニューアル後、詳細な技術解説や「ゲンバ男子」といったコンテンツを盛り込み、月間PVが20 ,000を超え、すぐに検索で上位にヒットする人気サイトに成長した。邦博は全国の業界での集まりで「あなたがアルファメックの方ですか」と話しかけられるようになったという。同業者の閲覧の多さを物語っている。サイトからの問い合わせも相次いだが、手軽な分、手を取られるだけのケースも多発。ビジネスにつながる、きちんとした問い合わせのみに対応できるよう改良した。
平成31年には、個人向けのゴルフリペアカスタムサービスを開始。個人からリペアやカスタムを請け負うという邦博のアイデアに当初、重之は大反対したというが、コロナ禍におけるゴルフブームもあって予想以上の売上を記録。B to Cという業界では珍しいビジネスモデルを構築し、個人からの受注は右肩上がりに増えていった。企業サイトとは別に「ゴルフ工房」として専用サイトを設置してブランド化に努め、インスタグラムのフォロワーも100人から3 ,000人に跳ねあがった。今では重之も「掘り起こせば、日本にはゴルフ好きがたくさんいる」、顔をほころばせる。現在、提携するゴルフ工房やメーカーは200社を超えた。リペアによって、一つのものを長く使いつづけるというこのビジネスは「国連の持続可能な開発目標(SDGs)」の観点からも成長性が見込まれる。
令和元年に3階のアルミ合金素材前処理自動機をゴルフヘッドの前処理工程へと転用。ヘッドのタコにかけられる本数を増やすため、前処理を自動化して作業者の負担を減らした。その結果、ゴルフの需要増に対応できたという。アルファメックの「強み」を活かす、邦博の戦略は当たった。
今後、邦博は少量多品種から多量多品種にシフトしていきたいと考えている。これはゴルフに限ったことではない。同じものをグルーピングして類似する仕事をまとめてこなす。少量多品種から抜け出し、さらなる効率化を目指すということだ。
令和2年、野村邦博は専務取締役に就任。めっきという仕事は、これからもなくてはならない社会的使命を帯びた業種であると考えている。部品を全部ニッケルで作るか、表面の5ミクロンだけを覆うか。コストを考えれば、必ずめっきが選ばれる。そのうえ資源も節約できるのだ。環境に悪い、というような考えは決して持つべきではない、と。
そして次の100年を見据えての覚悟を訊ねた。「一番怖いのはやっぱりレギュレーション(規制)が変わること。あとは代替技術が出て来て、めっきはもう要らないとか、塗装でいいとかいうことになって来たら、それは怖い」。100年という長い年月の先には、また次の100年という長い年月があるのだ。
しかし、邦博は言う。「どんな時代になっても、めっきの仕事を必要とされるお客様を開拓し、次の100年も必ずつないでみせる」と。
めっきという技術にこだわり、三代の社長がつないで来た100年。そのバトンは、アルファメックの次世紀を見据えた、気概と才気に満ちあふれた四代目にいずれ渡されることになる。
これからも、父から息子へ。
アルファメックの「創造」の歴史はつづいていく。
今日も重之は現場を歩く。時間が許す限り1階から3階までを見て歩く。重之はザッと見るだけで、音を聞くだけで、機械のベルトの緩みやめっき液の張り過ぎに気づく。また冬場には出ている湯気の量で、浴温度を下げるよう指示を出す。これはもう感覚的なものだ。ラインの適切な人数配置も、従業員の動きを見ていたら分かるという。長年の経験によって培われた勘は、これまで多くの仕事を成功に導いて来た。
「やるか、やらないか。やるなら、どういうふうにやるか。設備投資など経営に関わる判断は、外で図面を見ながらするものではない。工場のラインの中に入って、現場で仕事をしながら判断することが大事」と、重之は力を込める。
そしてアルファメックの将来にも希望を抱いている。
今後、需要の高まりが予想される半導体分野。その周辺設備の仕事も形になって来た。なかでも期待しているのは半導体の洗浄ラインで使用されるバルブ製品だ。洗浄ラインではフッ化水素酸を使用するため、安全性を担保できる精度と品質が求められる。そこにアルファメックは品質管理力で他社との差別化を図っている。
また令和2年にはゴルフヘッドに使用する銅燻し液の自社建浴に鈴木社員が成功。研究開発を引き継ぐ人材も増えて来た。タンクひとつから始めた重之の経験は、今では社員たちに受け継がれている。「タンクをいくつか作って、君はこっちでボロンめっきを、君はこっちで硬質クロムめっきを、とか言って任せるでしょう。すると2ヶ月もしたら僕より上手くなっていく。液寿命を伸ばして、管理もできたり。皆のレベルが上がって来ている」。四代目を支える人材は着実に育って来ている。
あと10年は仕事をつづけて、良い時を見たい、と重之は笑う。気づけば重之は大阪青年鍍金研究会の会長をはじめ日本鍍金協会の会長、大阪府鍍金工業組合の理事、全国鍍金工業組合連合会の理事など数々の役職を歴任して来た。現在でも大阪府鍍金工業組合の理事長、全国鍍金工業組合連合会の副会長を務めている。令和3年には産業功労者として大阪府知事表彰も受けた。
長い歴史の振り返りの最後に、自身の歴史とは一体何かとたずねると、重之から「めっき屋。めっき屋に徹したこと」という答えが返って来た。その理由は「面白いから」と、いたってシンプルだ。
大学の機械科で学んだが、旋盤などには興味がなかった。
「めっきってね、1時間放り込んでおいてパッと上げる時が何より楽しい。やきものみたいなものです。窯を開けるまで分からないのと同じ。スカッと上がった時は、皆喜びますよ。それで、もっと良くしたい、もっとキレイにしたいって頑張るんですから」。
決して伝統工芸展に出すことはできないけれど、創造性豊かな、誇りに満ちた仕事。そう語る重之の顔は晴れやかだ。そしてそんな背中を見つづけて来たからこそ、何があっても会社を守り抜くという四代目の覚悟がある。未来を見据えた邦博の言葉を伝え聞いた重之は「性格が全然違うから、相性がいいんだよ」と照れくさそうに笑った。父から子へ、受け継がれて来たその歴史とこころざし。次なる100年に向けて、またここから新たなスタートを切る。