中学一年生で初めて、めっきをつける。
祖父の魂は、孫にも確かに受け継がれた。
当代である野村重之は、昭和30年8月8日生まれ。直系の長男として、清之助にとても可愛がられて育った。幼稚園の頃から工場内を三輪車で走り回るような、やんちゃな子どもだったという。しかし、清之助に叱られた記憶はない。重之が小学生の頃、仲の良かった従兄弟と昼間からロケット花火を飛ばして遊んでいたことがあった。しかも横向きに飛ばすという危険極まりない遊びだ。清之助は注意するよう頼まれてやって来たが、重之の顔を見るなり「ちょっと貸してみい」とロケット花火を取り上げた。孫たちを叱りに来たはずの清之助は、自分でやってみて、危険かどうかを判断し、また判断させたのではないか。清之助の穏やかな性格と器の大きさが分かる。
また重之が中学校1年の時のことだ。夏休みの自由研究で、めっきをつけてみようと思い立ち、会社の実験室にもぐりこんで見よう見まねでめっきをつけていたところ、誰から知らされたのか清之助が実験室にやって来た。そして「この液に入れてやってみい」。その時、祖父が孫に初めて教えたのは、ニッケルめっきであった。とまどう重之をよそに、清之助は〝重之がめっきをやり出した〟と大いに喜んだという。
昭和55年、24歳で入社した重之は5年間、現場でめっきの仕事に打ち込んだ。職人気質の色濃い先輩社員たちのなかで、朝8時から働き、正午には一斉に昼食を取り、夕方5時にはあがって風呂に入る。そんな昔ながらの仕事場に重之は驚く。社員思いではあるが効率はやはり悪い。皆が働く時間を少しでもずらせば機械を止めることなく、さらに効率が良くなるのではないか。工場長であった義夫に提案するが、義夫は簡単には受け入れてくれなかった。重之の入社した時代はそうした古参の職人たちが主流を占めていた時期である。大学の工学部で機械工学を学んだ重之であっても、工場長の義夫には逆らえない。そこで重之は大阪鍍金工業組合のめっき学校に入り、ひたすら自身の技術と知識の向上に努めた。学校は週一回ほどであったが、そこで重之は多くの友を得る。ほとんどが同世代、自分と同じような境遇の青年ばかりだったのだ。そこには若いエネルギーが満ちており、のちの組合の青年部会「青研会」を支えるメンバーが揃っていた。あと継ぎとして皆で勉強にいそしみ、交流を深めていった。ちなみに青研会が発足したのは重之が専務になった昭和58年のことである。
重之が入社した翌年、思わぬ事件が起こる。昭和56年7月、工場の地中排水経路からめっき液が外部に流出し、下水道違反で摘発されたのだ。突然入って来た警察薬務課の捜査員たちに「全員動くな!」と言われ、皆で固唾を飲んだことを重之は鮮明に覚えている。原因が究明されるまで2週間の操業停止を余儀なくされた。警察の指示で地中を掘り返し排水経路を調べたところ、原因は地割れによる地下浸透と思われたが、それも施工や管理で防げたことである。その際の聞き取りで、めっき液を使っているタンクの担当者が日々タンクに入れる水の量が多くなって来ていることに気づいていた。やはり兆しは確実にあったわけで、それを察知できなければ取り返しのつかないことが起きる可能性があることをまざまざと認識させられた。二度と起こしてはならない事件であり、教訓として歴史に刻まなければならない出来事であった。
不動産投資と、バブル崩壊。
巨額の負債を背負う試練の日々が始まった。
昭和58年、重之は専務取締役に就任。いよいよ信一ともども、経営にも携わることになった。折しも時代はバブルへ向かおうとしていた。土地は必ず値上がりするという〝土地神話〟が生まれ、社会を、人々を、突き動かし始めた。もともと借地であった深江の工場敷地であったが、戦後地主より申し入れがあって信一が清之助に代わり交渉を担当し、購入している。そして清之助の死去で3人の息子たちが分割相続した。およそ800坪という広い土地を、抵当権が入ったまま息子3人で分けることになった。次男の義夫は道路を挟んで東隣の寮の敷地を、三男の美津雄は東の母屋の建つ土地を相続。残りを長男の信一が相続した。
そんな時、取引銀行から土地の売買についての提案を受ける。相続税対策として工場の底地の一部を信一から重之が買い取る親子間土地売買であった。その内容は、信一の土地を重之がその土地を担保に銀行から借りた金で購入し、その上に銀行から借りた金で建物を建てるというもの。それ自体は正常な取引であったが、ここから信一による不動産投資の失敗が始まったのではないかと重之は振り返る。信一は決算書まで書くほどの能力を持っており、会計や経理を自身でこなしていた。そのため銀行が持ってくるさまざまな話に、安易に乗ってしまったのかもしれない。もし当時しっかりとした税理士がついていたら、そこまで銀行の言うなりにはなっていなかったのではないか、と重之は振り返る。
また昭和63年には三男の美津雄が起こした商社、美津和産業株式会社と野村鍍金工業株式会社は互いに借り入れに対し、相互保証を行った。いわゆる共同担保である。三男の美津雄は精密金網の輸出を手がける貿易商社に勤めており、一年半のアメリカ出張中に勤務先の貿易商社が倒産したため、その事業をゆずり受け、継続させる形で美津和産業を起こしたのだ。ビジネスは決して悪くはなかったのだが、美津雄は当時、個人投資家まで巻き込んでブームとなっていた新株引受権付社債(ワラント債)によって巨額の損出を出してしまった。美津雄相続分の土地を野村鍍金工業が数億円で買い取るなど、信一は色々手を尽くしたが抵当権抹消には至らず、およそ30年におよぶ連帯保証のプレッシャーとの長い闘いが始まったのである。それは33歳の重之にとって大きな試練の始まりであった。
現在、その闘いを終えた重之は、すべては信一が弟に対して甘い対応をした結果だと思っている。そして「不動産は工場を増設するなど必要があれば買うべき。強引に買うものではない」こと、そして「人の保証はしない」こと。この二つを教訓として次代に活かして欲しいと考えている。
ゴルファーの心をつかんだ
「ボロンめっき」の開発。
厳しい経営状況に対峙しながらも、重之は黙々と仕事に精を出し、結果を出していく。幸いにもゴルフヘッドの受注は好調で、平成元年には新社屋として第2工場が竣工する。そこには住友ゴム工業向けのゴルフヘッド専用ダブルニッケル・硬質クロムめっきラインが装置された。プロモデルとして発売された「DP201」が国産アイアンの3大名器とも呼ばれ人気を博したこともあり、第2工場ではフル稼働の生産がつづいた。その後も次々と「ダンロップ」ブランドのめっきを手がけていく。
順調な受注がつづくなかでも、重之は試作や研究を決して怠らなかった。「めっき屋は試作をやらなければならない」というのが重之の考えの基本にあったからだ。重之は試作用のウォーターバスを作り、そこで機能めっきの研究開発を始めた。のちに主力製品に育つPTFE複合めっき、セラミックス複合めっきなどの無電解ニッケルめっきは、この時のわずか30リットルほどの小さなウォーターバスでの試作からスタートしたのである。
またその頃、住友ゴム工業のクラブ技術部よりクロムサテンめっきに代わる新たなめっきが欲しいとの要望が寄せられる。重之は耐食性と耐摩耗性を確保しながら、今までにないソフトな打感が得られる新しいめっきが必要だと考え、すぐに開発に取りかかった。そして大阪産業技術研究所の先生のアドバイスもあり、電子部品などに使われている無電解ニッケル・ボロン合金めっきに注目する。これは一般的な無電解ニッケル・りん合金めっきに比べて、めっき液の管理が難しく、被膜析出速度も遅く、薬品代も高い。しかしクロムめっきと比較すると表面硬度は若干劣るものの摩擦係数に優れており、耐久試験でもクロムめっきと比べて遜色がない。そうして重之は無電解ニッケル・りん合金めっきから、いきなり難易度の高い「ボロンめっき」の商品化に挑むことになった。
苦難の末、ひとまずビーカーワークでワンセットのアイアンを準備し、住友ゴム工業のクラブ技術部でアマチュアゴルファーとしても活躍する担当者に貸与した。忘れていた頃に、1年間のテスト期間を終えたその担当者は光沢感が増し、美しいゴールドの色調が漂い始めたそのクラブを見せながら「このめっき、イケますよ!」と弾んだ声を出した。
そうして量産品に採用されることになったが、発売までにはまだまだクリアするべき課題もあり、重之たちの試行錯誤もつづいた。そして平成3年、世界で初めて軟鉄鍛造アイアンにボロンめっきが採用された「DP601」が発売される。〝ボロン〞という響きがゴルフヘッドにぴったりで、しかも柔らかい色調の外観は機能美にあふれ、ゴルファーの心をつかんで大ヒットとなった。製厳しい経営状況に対峙しながらも、重之は黙々と仕事に精を出し、結果を出していく。幸いにもゴルフヘッドの受注は好調で、平成元年には新社屋として第2工場が竣工する。そこには住友ゴム工業向けのゴルフヘッド専用ダブルニッケル・硬質クロムめっきラインが装置された。プロモデルとして発売された「DP201」が国産アイアンの3大名器とも呼ばれ人気を博したこともあり、第2工場ではフル稼働の生産がつづいた。その後も次々と「ダンロップ」ブランドのめっきを手がけていく。順調な受注がつづくなかでも、重之は試作や研究を決して怠らなかった。「めっき屋は試作をやらなければならない」というのが重之の考えの基本にあったからだ。重之は試作用のウォーターバスを作り、そこで機能めっきの研究開発を始めた。のちに主力製品に育つPTFE複合めっき、セラミックス複合めっきなどの無電解ニッケルめっきは、この時のわずか30リットルほどの小さなウォーターバスでの試作からスタート品の受注出荷数の増加はもちろん、不活性なニッケル表面に他のめっきを積層し、密着させるという非常に困難な技術を可能にした野村鍍金工業には、他社からの引き合いが相次ぐ。しかし重之はすべて断った。ボロンめっきの開発はめっき加工の一切を任せてくれた住友ゴム工業との信頼関係があってこそ、という信念があったからだ。その後も「DP601」は平成10年まで販売がつづけられ、異例のロングセラー商品となる。
アルファメックへの社名変更。
そして、ハードブラック旋風を巻き起こす。
平成4年4月。野村鍍金工業株式会社はアルファメック株式会社と社名を変更した。当時、青研会で先輩経営者のコーポレートアイデンティティ(企業理念に基づきイメージ統一を図るブランディング戦略)成功事例を学ぶ講習会を企画した重之は自社でも実施することを決めたのだ。幾つか候補があったなか、イタリア語で一番を表す「α」、そしてめっきをイメージした「メック」を組み合わせた社名を採用。信一の「ア」から始まると電話帳の頭に載るという判断もあった。この頃には重之の意見に信一も耳を貸すようになっており、社名を変えるという思い切った提案にも賛成してくれたという。アルファメックという社名への移行は、会社の実質的な経営が信一から重之に移っていく時期にも重なる。
この頃から重之が試作を進めていた機能めっきが花開いていく。平成4年には無電解ニッケルにフッ素樹脂を均一に分散させたPTFE複合めっきを商品化。摩擦が少なく、型離れも良い。この技術に可能性を感じた。重之は積極的な営業を進め、他の機能めっきもエンジン部品や半導体の周辺機器の加工に採用されていく。
平成5年には瓜生製作株式会社より無電解ニッケル-セラミック複合めっきを受注。これは無電解ニッケルめっきとセラミックスを複合させた新しい機能めっきで、同社の専務と懇意であった重之が立ち話で現取引先の納期が遅いと耳にしたのがきっかけだった。そして断然早い納期と優れた耐摩耗性と潤滑性を実現させ、同社の主力製品の軸受への採用が決まった。
このようなひたむきな努力の甲斐もあり、試作から受注へつながるケースが増えていった。工程が決まれば若い社員から担当者を決めた。
それだけではない。平成8年には日刊工業新聞にPTFE複合めっきの広告を「すべるめっき」のキャッチコピーで掲載。その宣伝が功を奏、これまで手がけたことのない医療器具分野からの新規顧客を獲得。0 ,01㎠以上のキズも許されない外観基準など品質に厳しいオーダーであったが着実に成果を出し、現在の主力製品のひとつに育てあげた。
このように重之は豊富な知識とブレーン、そして持ち前のめっきへの情熱で数々の得意先を切り拓いていった。もちろん住友ゴム工業との良好なパートナーシップもつづいていた。平成6年に発売したドライバー「DDH240」が大ヒット。ステンレスのドライバーが主流だった時代に、ダンロップは飛行機に使われている軽合金ジュラルミンのドライバーを開発。難しい素材ではあったがわずか2ヶ月程でアルファメックのボロンめっきが採用された。
そして平成9年にはマクレガーゴルフジャパンから100周年記念モデルへの引き合いが来る。マクレガーといえば、当時世界で人気を誇った名門ブランドである。重之は初めて商談で上京し、虎ノ門のオフィスを緊張しながら訪問したことを覚えている。今までにない高級感を、との要望を受け、幅広いデータを取り、試行錯誤を重ねて独自のハードブラックめっきを開発。キャビティーアイアン「マクレガー エクセンチュリーホージドアイアン」に採用された。このハードブラックめっきは発売するやいなや、これまでにない黒色系めっきとして反響を呼び、ゴルフメーカーから引き合いが殺到する。重之は新幹線の客室ドア横を飾る、そのアイアンの広告を誇らしい気持ちで眺めたという。
「ダンロップ」との取引終焉。
まさしく正念場で迎えた、社長交代。
順調に推移していた住友ゴム工業からの受注であったが、平成11年頃から徐々に鍛造アイアンヘッドの中国移管準備が始まる。20年以上つづいた「ダンロップ」ブランドでの鍛造、研磨、めっきの下請け各社がアルファメックも含め、取引の終焉を迎えようとしていた。住友ゴム工業の担当者からは「他のヘッドメーカーのめっきも遠慮せずに受けてください」という言葉をもらっていたが他のメーカーも同様に中国移管が進み、同規模での新規受注は叶わなかった。受注数は年々減ってゆき、平成15年の中国への完全移管によりアルファメックは大きな売上の柱を失ってしまった。
重之の従兄弟で現在取締役部長を務める木曽功雄は、この時のダンロップに代わる製品受注に懸命だった重之の姿を忘れることができない。仕事がなくなった社員たちは現場で仕事を分け合う日々がつづいた。そんな姿にも心を痛めていたのではないかと木曽は振り返る。
ただ、平成9年に手がけた「マクレガーエクセンチュリーホージドアイアン」の大ヒットのおかげで、アルファメックのハードブラックめっきが広く認知され、新規顧客の獲得にもつながっている。兵庫県市川町のゴルフメーカー、プロックス社である。市川町は地場産業としてゴルフヘッド製造が盛んであり、この引き合いをきっかけに同町の他工場からも新規受注が相次いだ。その数は7社にのぼり、現在でも良好な関係がつづいている。
信一を支えながら、まさに獅子奮迅の働きをしていた重之に、この頃義夫がかけた言葉がある。「お前本当によくめっき、やったな」—-重之の頑張りを見届け、72歳の義夫は会社を去った。
そして平成16年5月、野村重之が社長に就任。重之にとっては苦難の途が待つ船出であった。それから程なくして、社員に充分なボーナスも出せず、水道代やガス代、電気代にも四苦八苦するような時代が訪れる。まさに正念場であった。
平成18年の終わり頃、信一が体調を崩して入院。それからたった3ヶ月ほどで帰らぬ人となってしまった。カメラが好きで、将棋やパソコンが好きで、孫の邦博をことのほか可愛がり、幼い頃からあちこちに連れ歩いていたという信一。邦博は入院する1ヶ月前まで一緒に日本橋のカメラ店や電器店を回った。店員に平気で物申す孫を見て「邦博は大したやつだ」と顔をほころばせていたという。
木曽は一度だけ病院に見舞に行った。その時の「工場を頼むよ」というひと言が信一との最後の会話になったという。戦争で国のために働き、帰還してからは家族の絆のために働いた。時代に翻弄されながらも、まさに「スマートで、目先が利いて、几帳面、負けじ魂、これぞ船乗り」という海軍軍人としての生きざまを貫いたかのような83年の生涯であった。
自らの努力と構想で、
逆境を乗り越えた。
三代目となった野村重之は、数年前から優秀な税理士の先生を招聘していた。経理が苦手な重之は「餅は餅屋、素人が手を出すとロクなことがない」という信条であった。
工場においても平成16年にはISO 9001を取得。これは品質管理のためのマネジメントシステム規格である。実はこの2年前に主力製品であるハブナットにバイポーラ現象による密着不良が発生し得意先より450万円の弁償が課せられていた。自動車の場合、部品不良はリコールなどの大問題に発展する恐れがある。この時はそれほどのものではなかったが、取引先からISO 9001の取得を求められ作業標準の見直しを行なった。設備管理という役割で工場を任されていた木曽は、重之と共にISO規格の取得に向け約1年にわたって奮闘。それまで自身の頭の中だけにあった、というデータや設備計画などを記録し、客観視できるよう心がけるようになったという。
また重之の営業努力も着実に成果となってあらわれ始めていた。医療器具の新規顧客や同業者の廃業から譲り受けた精密バルブの内部部品、空調機器用部品やエンジン部品など、機能部品の増加である。平成16年には再び「すべるめっき」のキャッチコピーで広告を出し、現在主力製品のひとつに成長した精密部品の受注にも成功する。平成20年代に入るとそれらの製品の売上はさらに伸びていった。当初の受注から25年ほどで受注量が30倍まで伸びた部品もある。「どんなに小さい仕事でも試作を断ってはいけない」と重之が常々語るのも、そんな経験ゆえのことだ。
平成20年にはリーマンショックが起きる。しかしアルファメックはその影響は比較的軽かったといえよう。めっきされたハブナットは出荷すれば、2週間で新車に装着される。後工程がない。そのため組立てラインの生産台数に敏感に反応できた。10月に起こったリーマンショックで11月には生産が7割減ったものの、翌年5月には元に戻り、その年の決算も黒字だったという。従業員の生活を守ることが何より大切であることを、経験上、痛いほど分かっていた重之。その時も雇用の維持に努めたという。
平成26年には、長男の野村邦博が入社。大阪市立大学経済学部を卒業後、大手建機メーカーキャタピラージャパンで営業を5年務めたのちの入社であった。
そして平成30年にはついに悲願であった抵当権の抹消を果たす。親世代から託された、大きな大きな宿題を終えた重之は今、どんな状況でも諦めなかった理由を問われると、笑って「めっきが天職だったから」と答える。「めっきは本当に素晴らしい技術。廃れることはないと思う。だから普通に頑張って、おかしなことさえしなければ、きっとやっていける」—— その言葉は強く、そして尊い。