二代 野村信一 時代二代 野村信一 時代

戦争の終結、息子たちの帰還。
生まれ変わった日本で、世代交代へ。

二代目、野村信一は大正13年2月に清之助の長男として生まれた。子どもの頃から手先が器用で、機械好き。特に機関車など鉄道が好きで模型製作などで非凡な才能を見せていた。

そして高校卒業後は、福井大学工学部の前身、福井高等工業学校に入学する。昭和18年の学徒出陣で海軍に入隊した時には、その知識を買われ海軍技術尉官の訓練を受けたという。

そんな信一が70歳、古希を迎えた時に書いた手記が残っている。 『50年前のこの頃、厳しい基礎訓練も終わり五月晴れの浜名湖で短艇の帆走巡行を楽しんだことを思い出す』……と。海軍はそのマナーの厳しさで知られていた。甲板士官が取り仕切る行儀やしつけ教育は厳しく、学生気分が残る信一たちも入隊するやいなや帽子のかぶり方、ボタンの掛け方、ひげの剃り方にいたるまで徹底して教育を受けたという。そこで学んだモットーが「5分前の精神」「出船の精神」「7分3分の兼ね合い」である。出航5分前には準備を終えること、いつでも出航できるよう備えること、そして7割方勝っていると判断できても、5分5分だと思え、ということだ。信一は戦後も社会生活や日常生活においてそれをモットーとして生きた。

終戦を迎え、復員して大阪に戻って来た信一は、住友金属へ入社する。大学レベルの工学を学んだ者には当時引き合いが多かったからだ。しかし信一はわずか3週間で同社を退社してしまう。 〝電車乗って通うのがしんどい〟というのがその理由だった。そして昭和23年、家業に入った。

昭和24年に分離独立を果たし、野村鍍金工業株式会社に改組してからは、信一の手腕が大いに発揮されることになる。しかし信一は生涯、めっきをつけたことはなかった。先に入社していた弟の義夫がめっきの修業を積み、着々と実績を上げていたからだ。義夫はのちに工場長として技術部門を取り仕切ることになるが、この義夫への遠慮は、信一の新たな市場開拓への熱意に結びついていく。

またその頃、総務を担当していた清之助の母方の従兄弟、大堀弥六が独立して大堀鍍金工業株式会社を起こす。また工場長であった親戚筋の高木太四郎も北隣の敷地にて高木鍍金工業所を起こして独立。清之助を長年支えて来た2人の独立は、信一と義夫に席を譲ったものと思われた。

戦後、ありとあらゆる民需品の需要が増え、材料の調達や電気事情はまだまだ不安定だったものの、めっき業界はすぐに立ち直り、仕事が回り出した。めっきは、それだけ必要とされる技術であった。

実際のところ再スタートを切った昭和24年は、まだ日本はアメリカの占領下にあった。物資の国内需要の増大はインフレーションを引き起こし、日本経済の再建を困難とさせた。そのためGHQは「ドッジ・プラン」と呼ばれる経済安定9原則を制定。厳しい財政引き締めでインフレーションを収束させ、また単一為替レートの設定で日本の輸出振興を図った。日本にとって大きな転換期となった時代である。清之助たちが世代交代を図ったのも、未来を見据えたうえでの決断であったのだろう。


ボンボンベッドの爆発的なヒット。
製品の多角化が、若き兄弟を成功に導く。

昭和26年のサンフランシスコ対日講和条約により、アメリカ進駐軍は撤退。日本は主権国家として再出発することになった。その頃、朝鮮動乱に端を発するアメリカ軍からの特需が日本経済を回復させる原動力となった。そして終戦から10年を経た昭和30年には、とうとうGDP(国内総生産)が戦前の水準を上回る。日本は戦後の復興期から、高度成長期へと歩みを進めたのである。ちょうどその年、信一に三代目となる長男 重之が誕生している。

社長は清之助であったが、専務となった信一、工場長となった義夫が二人三脚で事業を進めていた。

そんななか信一はスチール家具という新しい分野でめっきの仕事を受注する。取引先は岡部金属合名会社。図面が引けて工学的な知識もあった信一は、設計段階から相談に乗ることができたのではないだろうか。受注した仕事はベッドなどの骨格となるスチールパイプへのニッケルクロムめっきである。特にスチールパイプにビニールチューブを巻いた折りたたみ式簡易ベッドが「ボンボンベッド」という名で一大ブームを巻き起こした(正式名称は「ボンボンドリームベッド」)。パイプは曲げたら研磨しにくい。そのため直管で磨き、それを曲げてめっきにつけるという工程が必要になる。信一たちは2工程を組み、前工程の曲げから受注することになった。この技術はのちにパイプ椅子などの加工にも活かされていく。

ボンボンベッドは爆発的なヒットとなった。当時かなり高額だったにも関わらず、とにかく作れば売れるという状態がつづき、製造する八尾市の工場前には荷受けのトラックが列を作って待っていたという。そのボンボンベッドのめっきを一手に引き受けていたのが野村鍍金工業であり、その売上げは昭和31年の受注以来、右肩上がりとなっていた。従業員も50名まで増え、増産に対応するべく新工場を建設。さらに日本国内で2例目となるユージライト社の全自動めっき装置を導入する。1,300万円という当時としては破格の投資は、信一の経営判断によるものだった。その装置のスケールの大きさが評判を呼び、西日本各地から多くの見学者が訪れたという。

導入当初、操作を担当した西 和明社員の手記が残る。『最初はとにかく、日本一の機械を自分が動かす資格があるのだろうか、何回も考えた』と。そして『慣れて来て分かったことは、機械は確かに日本一だが、やはり中味も機械に負けないようできるだけ、少しでも他の会社の上をいかなくては』……と。並々ならぬ気概が社内にみなぎっていたことがうかがえる。

岡部金属合名会社とも一社購買の良好な関係がつづいた。三代目 重之はクリスマスになると従業員全員に同社からクリスマスケーキのプレゼントが届いていたことを覚えているという。

ただ、このボンボンベッドの順調さで義夫は小口の引き合いに対応することをやめてしまった。新規開拓や製品開発を怠り、小口の引き合いに時には上から目線の物言いをすることもあったという。新工場と全自動めっき装置の相乗効果でボンボンベッドはその後も売上を伸ばしつづけたが、外国産の安い製品に取って変わられ、昭和45年にはその生産も終了した。

若くして成功を収めた兄弟に、多少の慢心が生まれたとしても不思議ではなく、また責められるものでもないだろう。しかし歴史として見た時、この時の対応は本当に正しかったのか。成功体験は時に人を盲目にしてしまわないか。学ぶべき教訓があると重之は語る。


ゴルフ用品や自動車部品への挑戦。
社会と共に右肩上がりの成長がつづく。

社員の増加に伴い、昭和39年にはすべて個室の新しい社員寮も完成した。若い社員たちは野球チームを結成し、めっき業界の野球大会などで好成績を修めるなど、会社は活気に満ちていく。同じ年には東海道新幹線が開通し、東京オリンピックが開催されている。高揚感あふれる日本社会と呼応するように、信一も義夫も精力的に事業に邁進していた。

当時の信一の状況をものがたる面白いエピソードがある。昭和37年、信一は全国鍍金工業協同組合の視察旅行で1ヶ月間ヨーロッパに赴いた。バンコク経由でアジアを巡って観光をしながら、ローマに入り、ヨーロッパ各国を周遊するコースであった。もちろんメルセデスベンツなど工場見学なども行っている。しかし現在と違って、ヨーロッパ旅行に出かける人など、まだほとんどいない時代のことである。信一は、社長仲間の集まりで「野村ハン、あんたこの頃、布施でよく遊んでいるみたいやな」と声をかけられ、あらぬ噂が広まっていることを知る。酒は一切飲まなかった信一が驚いて「いいえ、僕は酒を飲みません」と答えると「ヨーロッパに行ったという羽振りのええ奴がこの頃布施でブイブイいわせている」と知らされたのだ。布施の繁華街に、野村信一の名を語って遊ぶ〝にせもの〟まで現れる始末である。当時の信一の活躍が、いかに華々しかったかが想像できよう。

昭和40年には、笠松金属工業から自動車用のホイルキャップの仕事を受注する。品質に厳しい規格が求められる自動車部品への初めての挑戦であった。義夫たち技術部門の頑張りもあって、ダブルニッケルクロムめっきで仕上げたホイルキャップがダイハツ自動車に無事採用され、その後の自動車部品の受注につながっていく。

また昭和42年頃から住友金属のゴルフクラブシャフトの開発にもめっきで協力することになった。それまでアメリカからの輸入に頼っていたゴルフクラブの国産化を目指したのである。ここでも工学に強い信一の才能が頼りにされたのではないかと思われる。

信一は昭和35年頃からゴルフを始め、「弥生会」や「SG会」など業界の懇親会でゴルフにいそしんだ。多い時には週3回も出かけるような熱中ぶりだったというが、半分は仕事もあったのかもしれない。その甲斐あったのか、昭和44年には住友ゴム工業からアイアンヘッドを受注する。業界上位の「ダンロップ」ブランドであった。シャフトから、ヘッドへ。こうしてゴルフヘッドのめっき受注が本格化し、信一たちは将来に向けさらなる強みを手に入れることになった。

大阪では万博が開かれ、産業界は活気に沸いていた。しかしその頃から環境破壊や公害が社会問題化し、昭和47年には公害国会とのちに呼ばれる公害対策の集中審議が行われ、翌年、環境基本法が制定された。めっきは工業排水の関係で公害規制の対象となり、それを受けて野村鍍金工業でも大規模な排水処理施設を設置し、対応した。

そんな信一の八面六臂の活躍を見届けるように、昭和48年の12月に創業者 野村清之助が逝去。晩年は酒もたしなみ、孫である重之がめっきに興味を持つことを何より喜んでいた清之助。体力の限界まで、最後の最後まで、工場に来て作業を見守った、まさに死ぬまで現役をつらぬいた76歳の生涯であった。


アイアンヘッドにハブナット。
次代を担う、主力製品が出揃っていく。

清之助の体調不良により、昭和48年5月には野村信一が社長に就任した。好調を支えたボンボンベッドの製造は終了していたが、その空いた穴を埋めるようにアイアンヘッドのめっき受注が増加していく。ダンロップ一本で受注をつづけていた信一であったが、同年、輸出商社であった平井商会から輸出用のゴルフヘッドとシャフトを受注している。それには理由があった。

当時ゴルフクラブは、嗜好品などに課される物品税の課税対象であった。いわゆる贅沢品だったということだ。メーカーは出荷時に税を上乗せしなければならない。またシャフトには納税シールを貼る必要があった。平井商会は製造にあたってその税の申告に困り、税務署に相談したところ、なんと東成税務署から「慣れているから」ということで野村鍍金工業を紹介されたというのだ。さすがに信一も税務署からの紹介とあらば、断れなかっただろう。平井商会から受注したゴルフヘッドとシャフトは低価格品へのめっきであったが、その後も平井商会がなくなるまでおよそ25年にわたって受注がつづいた。

着々と取引先や仕事の多様化が進むなか、昭和49年には現在も1号ラインとして使用している、自動車部品用の自動ニッケルクロムめっき装置が導入された。また自動車部品の幅も広がり、現在主力製品となっているハブナットのめっきに先行してトラックのサイドバンパーのクロムめっきも手がけていた。担当するのは、サイドバンパーの両端の角の部分である。野村鍍金工業の技術力が買われての受注であった。

昭和51年には株式会社オンドよりハブナットを受注する。自動車のホイールがアルミに変わっていくなか、ハブナットのめっきは取り付け強度を左右する重要なファクターとなっていた。野村鍍金工業はキャップのスポット溶接とめっきの2工程を請け負い、その製作を担当した。スタート当初は月産20万個くらいであったというが、のちに自動プロジェクション溶接機を次々と導入し、自動車メーカー マツダの50%に搭載されるハブナットの受注を獲得するまでになる。現在では5台の自動プロジェクション溶接機が稼働し、月産100万個を数え、世界中を走るマツダ車の足元を支えている。

また昭和53年より家具メーカーからパイプ椅子やテーブル、ディスプレイ用品などの受注が相次ぐ。めっきだけでなく、前工程の曲げや穴開け、溶接などの加工もこなすようになり、受注製品の種類や点数が増えていった。ボンボンベッドの製造で培ったノウハウの成果であった。

ゴルフクラブの国産化が進むと、ゴルフヘッドに対する表面処理には耐食性、耐摩耗性、装飾性が要求され、国内の大手メーカーがしのぎを削ることとなった。多くの会社が最初はアメリカ製品の模倣から始めたようだが、野村鍍金工業とダンロップは、そのめっきがどんなものなのか、電解式膜厚計で溶かしてリバースエンジニアリングをすることで、めっき膜厚の基準を決めたようだ。専務の野村邦博によると、現在でも各メーカーが揃ってニッケル20μm、クロム3.6μmというこの基準を採用しているという。

家具、自動車部品、ゴルフヘッド。野村鍍金工業の主力製品が整いつつあった昭和55年、三代目となる野村重之が入社する。同志社大学工学部機械工学科を卒業後、2年間の商社勤務を経ての入社であった。


お問合
わせ