初代 野村清之助 時代初代 野村清之助 時代

日本が「近代国家」へと歩みを進めた時代。
若き兄弟は、大阪でめっき職人の道へ。

アルファメックの創業者 野村清之助は、明治30年に愛知県豊明市で生まれた。10人兄弟で、清之助は六男であったという。父の利三郎は、農業のかたわら煙草の販売やローソクなどを作って暮らしていたが、その生活は決して楽なものではなかった。清之助の7歳年上の兄、三男であった近之祐が、わずか8歳にして他家に養子に出されたのもその証左だろう。しかし、その養子となって中井姓となった中井近之祐が、のちに野村家の兄弟の人生を大きく変える、めっき職人のパイオニアの一人として大阪で活躍をすることになるのだから、人生というものは分からない。

清之助の7歳年上の兄、中井近之祐は16歳で日本のめっき業の草分け、東京の宮川めっきでお世話になり、技術を身につけた。また武者修行の心意気で20歳までめっき屋数件を渡り歩いたという。その頃のめっきはまだまだ創成期で、理論も方法も手探りの状態であったというが、近之祐にとっては情熱を傾けるやりがいのある仕事だったと思われる。そして23歳となった大正2年頃、活況を呈していた大阪の地で念願の独立を果たす。愛知より兄弟を呼び寄せたのも当然の成り行きであったろう。

当時の清之助の記録はない。しかし清之助はその時16歳。兄を頼って大阪に来て、めっき修業を始めたことは間違いない。ここでは清之助の創業のルーツとなった兄 近之祐の記録から、その時代の野村兄弟をめぐる状況を記しておきたい。

近之祐は熟練しためっき技術を資本に念願だった独立を果たしたが、3ヶ月ほどで閉業を余儀なくされている。ただ当時の日本には、朝鮮半島から中国、すなわち大陸へ進出する夢を若者に託してやまない風潮があった。その時代の波に乗り、近之祐はめっき技術をひっさげて活躍の場所を朝鮮半島に求め、渡航した。

長男の慎太郎も大阪に来ていたようだが、のちに愛知に戻ったようだ。次男の六郎は大阪のめっき業界で修業をつづけ、大正5年には独立を果たしている。現在の株式会社野村鍍金である。また慎太郎の息子、正一も大阪で昭和6年に野村正メッキ所を創業し、株式会社野村鍍金工業所を経て、現在の株式会社センショーにその系譜がつながっている。このように野村兄弟とその一族は、それぞれが当時、最先端の技術であっためっき産業の若き担い手として活躍していたのである。

大陸に渡った近之祐は高利潤の仕事を請け負いながら、一定の成果を得て再び大阪へと戻った。大阪では大陸で磨いた効率的な技術を糧にめっき工場で活躍する。そして機を見るに敏であった近之祐は、大陸より帰って2年で再び独立を果たしたという。そして技術指導と資金をバックに近之祐は大阪で次々とめっき工場を開設していった。ただ自らは経営の表に出ることせず、共同経営者として歩合で利潤を得る方式を取っていたという。

六男の清之助も、近之祐のもとで技術を磨き、兄の良き片腕となっていたのであろう。26歳となった大正13年、いよいよ清之助は独立を果たす。折しも、その年は長男 信一が誕生した記念すべき年であった。


念願の独立、そして移転。
清之助はめっき業界で頭角をあらわしていく。

自宅の一階に3尺ほどの瀬戸物のめっき槽をあつらえ、ひたすらめっきにいそしむ。手伝うのは妻や家族。そして従業員は、めっきをつける男たち、製品の仕分けや梱包を担当する女たち。独立した清之助の仕事場はそんなものだった。めっき業に限らず、その時代多くの町工場がそうであった。従業員は10人いたか、いなかったか。創業地は大阪市東区清堀町24番地。その地名は残っていないが、現在の玉造2丁目あたりと思われる。

清之助が手がけていたのは、丁番などの建築金物や自転車部品のニッケルめっきだった。丁番とは、扉のヒンジ部を補強する金具である。人口増加で建設ラッシュに沸く大阪では需要が高かったものと思われる。もちろん国内需要だけでなく、当時金属製品の輸出を守るものとしてめっき産業は重要視されていた。

大阪は明治の初めに大阪砲兵工廠、造幣局と2つの官営工場が作られたことから、関連工場が多く建てられ、化学工業や金属工業が発展。明治15年には大阪紡績の操業をきっかけに紡績工場が次々と誕生し「東洋のマンチェスター」と呼ばれるまでになる。そして大正に入り、関東大震災で被災した東京や神奈川からの移住者も増え、大阪は人口はもとより工業出荷額において国内随一、また世界でも有数の大都市へと躍進したのである。いわゆる「大大阪」時代である。そうした時代背景もあって、腕利きのめっき職人たちは東京よりも収入の多い大阪を目指した。

当時、職人は腕の良い者ほど腕を磨くことに専念し〝何めっきの何某〟と、その名が知られることが誇りであり、優れた職人の噂は同業の間をすぐに駆け巡った。清之助が創業した大正末期は、そんな職人たちがプライドをかけてその技を競い合う時代でもあったのだ。

ニッケルめっきは、第二次世界大戦後に光沢剤が開発されるまで、下地に銅めっきを行って仕上げ研磨を行い、その上にニッケルめっきを施す銅仕上げと呼ばれる技法が一般的であった。銅の仕上げは研磨技術が重要であり、清之助もその技術の研鑽に余念がなかったという。そうして清之助はめっきつけだけでなく、研磨職人としても優れた技術を持つことで知られていた。

清之助は長男信一を筆頭に3男6女に恵まれ、昭和3年にはのちに工場長となる次男義夫が誕生している。

昭和4年には工場を清堀から現在の深江へと移転する。仕事量も増え、人員も増え、手狭になったというのがその理由だ。清堀同様、深江も最初は借地であったが、大阪の中心地よりも割安であったこともあり清之助は800坪という広い土地に工場を建てることができた。この土地は戦後、昭和24年に買い上げている。

そんな清之助のもとに集まった従業員は独身者が多く寮に住み込みであった。清之助の妻ヒデヲは家族だけでなく、彼らの三食の面倒も見なければならなかった。お手伝いさんも常時2名ほどいたが、ヒデヲはそれを取り仕切り、まさに寮母さん的存在で清之助を支えていた。

また清之助は昭和5年に業界仲間の緒方主計、板東正らと共に「昭生会」を結成。『業者の懇親的な団体であったが、有力者が多く参加していたので業界発展の影の力としてその功績は見落としてはならない。』と大阪鍍金工業協同組合史にも記されているように、いかに清之助が技術の追求のみならず、業界のために精力的な活動をしていたかがうかがえよう。


戦時統制下で課せられた「企業整備令」も
野村一族による合併で乗り切る。

昭和11年に日中戦争が勃発すると、めっき業界にもその影響が出始めていく。ニッケル、金などのめっき原料やガソリンなどの燃料が不足し始め、そして昭和12年に国家総動員法が制定されると、物資や物価などあらゆる分野にわたって政府の統制措置がとられるようになっていった。大阪のめっき業界では、統制に備えて原材料の消費制限および共同購入などを円滑に進め、総力をあげて業界を守るべく昭和13年に大阪鍍金工業組合を発足させた。すでに兄 六郎と共に活躍目覚ましかった清之助ももちろん参加している。

そして昭和16年の太平洋戦争開戦。戦争突入と共にめっき材料の不足がさらに深刻化し、ニッケル不足は各種代用めっきの研究や応用を生んだ。

大阪のめっき会社には軍需品へのめっきが課せられることとなった。大きいものでは大砲の防禦鉄板から、小さいものでは軍装品や軍靴の裏鋲などである。清之助の工場でも軍服のボタンの真鍮めっきや戦闘機の燃料タンクの錫めっきなどが行われていた。

昭和17年には多くの中小企業を統合によって拡大させ、軍需産業へ変換させるための「企業整備令」が公布された。清之助の野村鍍金工業所は兄 六郎の野村鍍金と合併し、阪神鍍金工業株式会社深江工場となった。野村一族でまとまり、よそを入れなかったことが合併後のスムーズな事業継続につながったという。この企業整備令によって大阪におよそ200軒あっためっき会社は約20軒までその数を減らした。

船舶や航空機、通信機や兵器に欠かせないめっきは、軍でも重要部門の産業として位置づけられていた。戦時統制下において、めっき業界は軍の要請以外には生きる道はなく、技術研究は二次的なものとして追いやられた。それでも大阪のめっき業界では共同研究所の設置を果たしている。その間の清之助の活動を知るすべは今となってはないが、さまざまな応用めっきの開発や製品化を軌道に乗せるために奔走していたことだろう。

日本が画期的な打開策も見出せないまま、日々は過ぎていく。昭和18年には学徒出陣。福井高等工業学校で工学を学んでいた長男 信一も海軍に入隊する。

そして大都市に空襲が始まる。敗戦の気配が色濃く漂い始めた昭和20年、兵役についていた清之助の次男 義夫が無事帰還し、阪神鍍金工業株式会社深江工場へ入社した。その年の6月には米軍機約90機による大阪大空襲もあったが、深江工場は被害をまぬがれている。その後、本土の焦土化が進み、8月には終戦を迎えた。

戦時中の清之助にはこんなエピソードが残されている。召集令状が高齢者にも届くようになり、清之助は近隣の知り合いを雇用することで、その命を守ったのだという。軍需品の関連工場で働けば、兵役は免除されたからだ。物資不足に市民が苦しむなか、産業報国のため工場には労働加配米が支給され、昼食の心配がなかったことも関係しているかもしれない。地域の人々に戦後も長く感謝されつづけていたという清之助の人柄がしのばれる。

終戦時、清之助は48歳。この機に廃業する企業もあるなか、日本再建のため再びめっき業で力強く歩みを進める覚悟を決めた。昭和23年には無事復員を果たした長男 信一が入社する。そして翌年には、阪神鍍金工業株式会社からの分離独立を果たし、清之助は野村鍍金工業株式会社に改組、新たなスタートを切った。


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